好きなもの好きと言いたい

 


子どもの頃、画家になりたかった。

モンゴルの高原や名前もよく知らない外国の離島でひとりで絵を描いて生活するのだろうと思っていた。

協調性や社会性が乏しいとずっと言われていたこともあって、漠然とそういう生きかたなら生きていけるかもと思っていた。

しかし、だんだんと大人になるにつれて、自分が大人になって絵を描いている姿を思い描けなくなっていった。

田舎に住んでいて、どうやって絵を学んだらいいのかも分からず、美術予備校がどのようなもので、美大をどうやって受験するのかすら分からなかった。

結局は、経済的な理由などで、国立の大学の手に職が得られるような学部に進学した。

美大生ではないことや、権威的な後ろ盾も肩書きもないことで、自分が絵を描いている理由がよく分からなくなって虚しくなった。

せめてツイッターであげたりしてみようかと思ったけどツイッターを開けばそこには絵の上手いひとが沢山いて怖かった。

見よう見まねでデッサンをしてみようかと思ったけど、よく分からないまま10枚も描かずに挫折した。

だらだらと絵を描き続けていたのは、学生時代に知り合ったひとたちに誘われて、仲間内の気楽な展示に参加するのが楽しかったからだ。

それと、人生でもっとも精神的に不安定だった時期に、絵を描くことはアートセラピーの役割にもなっていたと思う。

たまにすこしだけいい絵が描けてそれをひとが見てくれるのがうれしかった。

 


去年、鎌倉のカフェギャラリーで働くひとから個展の誘いがあって、絵を描くことについて考えに変化があった。

誘ってくれた子は、自分のことを長年ツイッターでみてくれていて、色々な言葉や作品に救われたから恩返しがしたいと言っていた。

「ただの不幸せな偶然」と銘打って行った展示は思っていたより多くのひとが足を運んでくれて、泣いてくれていたひとやあなたのツイートや作品などに救われましたと言ってくれたひとがいた。

自分は別にたいした人間でもなくて教育を受けていなくてそれをずっと恥じていたけど、そんな自分の絵をわざわざ足を運んで見にきてくれてありがたかったです。

かけてくれた言葉のひとつひとつで、救われたのはずっと自分のほうでした。

これから先も自分が権威的な後ろ盾や支援を得られることは見こめそうにないけど、死にたい気持ちだったけどあなたの絵で穏やかな気持ちになれましたと言ってくれたひとがいたから、まだしばらくは絵を描いていても虚しくならずにすみそうです。ありがとうございます。

すこしずつ絵の仕事がもらえるようになって絵が売れるようになって、そういうのも全部あなたがたのおかげです。


最後に、絵を描くことは好きだけどなんだか虚しくなるというひとにとって、自分の存在がすこしずつ大きくなっていくことでエンパワーメントできたらいいなと思う。

美大を卒業していなくても肩書きがなくても、好きな絵を描いていたらたのしい瞬間があって、つらい気持ちが紛れて、きっといつか嬉しいことも起きると思ってほしい。

日本はとくに技術偏重の傾向があって、技術ばかりが評価されたり、ひとの絵に対して心ないリプライが送られているのを見たりすることがある。

絵が好きなひとが、みんなそれぞれ好きなように描ける世界が自分にとって理想に思う。

それは、大きくひろげると絵を描くということだけではなくて、仕事や趣味、好きなものを好きだと素直に言えて、好きなことをしている自分のことを好きになってほしいです。